さくひん

   「遺産」

                            加藤貴也

 今日は休館日だ。外から公民館を呆然と眺める。窓にはしっかりとカーテンが閉められ、室内の温度は私が想像するものでしかなく、しかしそれは生温い蟠りの発信源、動くものと言えば一匹の黒鼠位だ。カサカサという音だけが反響し、てくてくなどとことこなど幻聴が聞こえたとしたらそれはちんけな昔話。そして明かりもわずか乏しく、乏しいとしても優しく、優しいと言っても泣き出したいくらいに刹那への愛情こもり、所々時間を欠いた夢の様。

「こないだ、つい先日お休み頂いていた間、五日間インドへ行っていたんです」

「暑かったろうに」

「外、あんまり出れなかったんですよ」

「あめだったの」

「はい、それに沢山の、」

 害虫

 このヒモは蚯蚓だろうか。公民館から足元に目線を移し、コンクリートの上で干からびる赤茶色をした命の為れの果てをしんみりと見つめる。公民館、蚯蚓、私、と順に追っていくのであれば私の後ろには影、そして少し行った所にインド。彼女がつい先日行った国。私のインドの知識は乏しく、浮かぶものは物乞いと羽根つき便所位だ。後ろを振り返る。そんなに甘くないなと、立ち並ぶ住宅街を一瞥。私は日本から外に出たことが無かった。

 

 私は実体のないインドから今ここにありありと干からびる蚯蚓のミイラに視線を移す。表面が鈍くぎらついており、どう見ても固く、微かに匂ってきそうではあるが、こんな具合ではもう駄目で、どこをとっても助けようがなく、水でもかけてあげようか。公民館の玄関にウォーターサーバー。しかし私はそれどころではなかった。汗は流れ、綿のシャツは透けかけ公然わいせつすれすれの三十路、私、もうどうにも助けようがなく、二の腕の肉がくすくすと笑い出す。ああ、こうやって命を消費していくのだ。と考えるのも刹那。

目に映るのは蚯蚓のミイラ。見すぎて穴が開く。穴と言っても少しほじった程度だが、確実に一部が欠如、もしくはどこかに切り離される。それくらい見る。昔、虫眼鏡を使って太陽の光を集合、黒い画用紙に穴をあけたが、あれは、あの湿った興奮は何だったのだろうか。幼少期の私達はあの実験の先に何を見ていたのだろうか。

誰かの力を借りて、一つでもいいから風穴を開けてみてはどうだろうか。もしくは絶対的な力を知らしめ相手が虚脱したすきに首根っこを掴み力の限り振り回す。

どっちにしろ穴をあけてみろ、と教師は言った。時空を超えて、その声が昔と変わらないもので、穴をあけてみろ、と、分かったよ、先生。

 こうして私は、唯干からびた、殆どヒモの蚯蚓を凝視する。この目の光は乏しいのにな。なんて、カッとピカっと。違う。太陽光はさーぞーぴーーー。

 薄く、遠く、蝉の声が私を包み、夏独特の閉鎖間に誘い、同時に遠くで見える蜃気楼が、意思と意識をどこまでも導く印となる。なんでだろう。なんでかな。ふらふらと思考の停止。そして開始。位置について。ピストルの音はスターターピストルではなくプファイファー・ツェリスカと言った殺意。嫌でも走り出す。恐怖で。そして思考の水深千二百メートル。そこにたまった海泥を、エビが音も置き去りに荒らす。舞う思考の欠片。もはや屑。海の星。

 ジリジリとそらの神様は、大きな大きな虫眼鏡で私に穴をあけようと息を止めて構えている。そんなにしなくとも。なあ、なあ、神様。私がいつ拝んだかって、それは、それは、拝んだ事なんか無いけど。死ぬ間際に手を合わすのじゃ遅いんかい。どうなんだ。貴方に開けられた穴は二つ。はじめっから、そう、はじめっから。

 一つは私の言葉だ。私には、ありがとう、という言葉に始まり人の心を温かくする類の言葉が欠落している。ジリジリと、年を重ねるほどにボコボコと欠落していった。いつか言ってやろう。伝えるんだ。お母さんにありがとう、お父さんに今日もお疲れ様、そして友達にはまた遊ぼうねじゃあまたね、部活の先輩には凄いです流石。考えるうちに親族旅立ち、知人離れ今はどうかって言うとやはり確実に人間関係は停滞、もっと悪く乖離。そんな具合に、とにかく上手くいかない。

そして、私の心臓には穴が開いている。先天的なもので、生まれた頃から確実に火種を抱えており、この病は今や私と等身大の存在感を発揮している。喘息立ち眩み吐き気発熱下痢頭痛肩こり、このまま心臓の穴は大きくなってゆき、いずれは死に至るそうだ。全部心臓の穴のせいだって、そうきっとこの穴のせいだ。穴が無かったら今の今まで健康体。

 神様は私から、優しい言葉と心臓の一部を奪った。

 私は神なのか、そうでないのか、いやはやもはや私は私なのかも分からない私は一体全体何者なのか。どこかで何かを見失ったのは何となくだが理解できていた。相も変わらず蚯蚓のミイラに注がれる視線は、実態を持たず空中の水分によって乱反射を続けるばかりだ。そうか、この視線の元、思考する者こそ私なのか。帰ってきた。

 虫眼鏡を買おう。そう私はそうどうしてもこの蚯蚓に穴をあけたいのだ。何故かと問われると、何者でもいい、完全に一部を削除、欠落させ他人の力をわが物のように振るう自分の姿を観たいのだ。その欲求が素直過ぎて私は自分に眩暈がするほど酔いしれた。

 目線を上げる。ゆっくりと、なるべく空気が揺れぬよう。静かに身をひそめる公民館が、ある。しかし中では黒鼠が這い回り、私達職員が付けた足跡を舐めまわり自称清掃員。中で読書をする私を思い浮かべる。ああ、気味が悪い。何故私は粘っこい夏の公民館の中で読書などしなくてはならないのか。そんな囚人じみたことをしなくとも、ほら、私はおりの外、公民館の外側に、くっきり黒色影を落とす。目の前にあるのは公民館。外観。

私はここで恋をした。一緒に働いていた同僚の女は、華奢で色白く、とても落ち着いた静かな女だった。私は彼女に恋をした。

「愛子さん。これ、片付ける分でよろしいでしょうか」

 彼女は私に問い、さりげなくため息をつく。その溜息はとても香りよく私にはいい薬だった。彼女はよく溜息をつく。窓の拭き掃除をする時、本を棚にしまい込むとき、食事のあと、さりげなく私には香りいい溜息をついた。

 出会いと別れは近すぎる。去年の冬に彼女はやって来て、去るのは翌夏。初めて彼女を見たのはトイレの化粧台前だった。私は気持ちよくトイレを出る。見かけない後ろ姿。何やら目のあたりを弄っている。注意深く見ると、それは睫毛を抜く動作だった。

「ちょっと、貴方」

「はい」

 振り向いた彼女は睫毛を抜いた右目をひくひくと痙攣させながら、なぜか寝起きの様な顔で私を見た。

「睫毛抜いてたの」

「はい」

 職員用のネームを胸に付けている。

「あ、初めまして」

彼女は私のネームに気付いて、やっと目の痙攣をやめて挨拶をした。

「初めまして。それ」

 私は彼女のネームを指さして言った。

「あ、」

「今日からお世話になります」

「はい」

「さっき主任につれられて挨拶を」

「したんですね」

「はい」

「愛子、さん」

「はい」

「居ないとなっていたんですが、トイレにいらっしゃったんですね」

 私の放尿をどんな思いで聞いていたのだろうか。なんだかゾッとした。黄色く光る、ゾッ。

 先日、朝から只管書類にパンチで穴をあけていた私に近寄ってきた彼女は流れるように言った。

「愛子さん。私、ここを辞めることにしたんです」

 彼女は言った。誰よりも先に貴方に報告したのです、と。その時陽は傾き、赤みを帯びた光が彼女の頬の産毛を優しく撫で、その摩擦で数本長いのが空中を舞ったのを私はじっと見ていた。今年初めて蝉が声を上げた日だった。

 私には目の前の公民館に穴を感じた。なんだか虚しい。寂しいと言った方が分かりやすいだろうか。しかしそれよりもサラサラとスース―と、しかし何か鋭利なもので埋め尽くされたような、虚無感、否、満ち足りた恐怖がここに脳みそに積もっていく。私はこれに耐え続けるほど馬鹿でもないし、馬鹿であっても体力を持ち合わせていない。彼女のいないここは、私にとって必要ない。私は暴爆という、単純にして効率的な方法を目論んだ。穴そのものの概念を破壊してみてはどうだろう。それはいかにも妥協策な気が今でもしないでもないが、シンプルなのが一番良い。

 いくらかの思考の後、蚯蚓に目線を落とす。動かない、じっとしている。うずうずするではないか、今にでも走って虫眼鏡を買いに行こうか。私は、自分の実力で誰かの犬になる事を望んでいるのではないだろうか。太陽の犬とでも言うのだろうか。私ならその犬になる事が出来る。虫眼鏡一つで。

手元に目線を移す。彼女が公民館での仕事を辞めると言った一週間前、その日から組み立て上げた、中立時限式小型爆弾、数個。それをボストンバックに詰め込んで右手に下げている。職員用の通用口から忍び込み、これを建物の核をなす管理室に配置し、発動する。時期にタイマーがスイッチとなり、公民館を内側から食い尽くす。

 唯それだけ。唯それだけだ。

 蚯蚓は動かない。私も何故か動き出せないでいる。

「いままでありがとう」そう言えるだけでも違っていたのかもしれない。私はこれから実行に移そうとしている非行を言葉の欠落のせいにして自らをなだめた。ジリジリと太陽は空の頂点を目指す。

 私には時間がない。言葉の欠落と同じく心臓の穴も表れとして著しかった。ここに立っているだけでも辛い。喉の窮屈さに肺の活動は阻まれ息は細く、酸素のまわらない脳みそはくだらないへ理屈ばかりこね始める。時間が無いのだ。無い。と思いこまなければ私は決意を捨て去り、日常を過ごして今うではないか。唯私自身の欠陥を見つめ直す永遠の作業が待つ日常に。ここはやっとたどり着いた土地で、ここには走ってやってきた。

 体は確実に蝕まれている。キュウキュウと音を立てて押し広がる心臓の穴を見つめながら、私は唯立ち尽くす。

 私は、穴、という概念を見つめ直さなくてはならないようだ。ただの穴、に落ち着いて良いのだろうか、その先で穴という概念を破壊するべきか。

 虫眼鏡を買いに走ろうか、公民館に忍び込もうか、決められずにいた。

 夏の日差しは私の思考をねちっこくなぶって来る。効果的にして迅速な神の対応だった。そこらじゅうで鳴る蝉の求愛は五月蠅く、耐え難いものだった。

                                       完